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環境だより「SONAERU」

あの時、何をしていましたか?「3.11」から12年経った東北の今。

2011年3月11日14時46分、皆さんはどこで何をしていましたか?甚大な被害をもたらせた東日本大震災の発生から、今年で12年を迎えました。

大きな被害を受けた東北は今、“復興”から次のステージへと向かっています。12年の時を経て変化した想い、そして変わらず求められ続ける「備え」の大切さについて、震災直後から東北で活躍してきた3名にインタビューしました。

災害はこれからも必ず発生する。今できる備えの大切さ

東日本大震災当時、パソナ・仙台の支店長を務めていた、パソナマスターズ 竹原 剛副社長にお話を伺いました。

災害当時、仙台ではどのような状況でしたか

当時、「最近地震が多いね」という話をよくしていました。震災当日、揺れが始まってからもいつものように時間が経てばおさまるだろうと思っていたのですが、徐々に揺れは大きくなり、あっという間に立っていられない状態になりました。

100キロ近くの重さがあるコピー機がオフィス内を動き回り、机の下に隠れようとしても机が揺れで飛び跳ねてしまうなど、想像を絶する状況でした。震災発生時には18階にいたのですが、揺れが収まった後に火災警報(結果的には誤報でしたが)が鳴り響き、命の危機を感じました。

震災発生後、印象に残っていることはありますか

パソナグループの社員の皆様からのご協力のおかげで、震災が発生してすぐに支店の倉庫がいっぱいになるくらいの大量の支援物資が届きました。支援物資をスタッフの方々に配布をするなかで、「こんな状況の中来てくださりありがとうございます。パソナで働くことができて誇りに思います。ありがとうございます」と涙を流して感謝してくださる方もいました。

また、家が津波で流されてしまった警察官の方がいらっしゃったのですが、そのような状況でも自身で臨時交番を建てて、多くの方々を必死に支援していました。被災者でありながらも周りの方々のために尽力している人々を見て、とても胸が熱くなりましたし、私たちも今できることを精一杯やらなければいけないと感じました。

防災の観点でどのようなことが大切だと感じましたか

震災直後、全国にいる友人や関係者の方々からご心配いただき安否確認の連絡が五月雨で絶え間なく届いたのですが、何百人の方から一気にメールが届いたことによって携帯の電池が激しく消耗し、いますぐに連絡すべき方に連絡ができない状態になりました。その経験から、震災時の安否確認や連絡手段は共通のプラットフォームに一元化すべきだと学びました。

パソナグループでは、緊急時対応マニュアルをはじめ災害時に役に立つ情報を掲載した「パソナグループ社員手帳」や「安否確認システム」、また各拠点に設置されている防災備蓄など、災害時に備えた様々なインフラを整備しています。しかし、社員一人一人がそのシステムをしっかりと認識し、いざというときに実際に活用できるかが鍵になると思います。

▲「パソナグループ社員手帳」アプリ

震災を経験し、改めてどのような備えが大切だと感じますか

パソナグループでは、毎年3月、過去の災害を忘れず行動を起こし、そして防災を自分ごととして捉え備えるための「防災月間」を設けています。講師を招いた防災セミナーの開催や、年間を通じた避難訓練など様々な備えに取り組んでいますが、そのような機会を通じて、一人一人がいざというときに自分の身を守ることができる知識を身に付け、そして行動に移せる力を持っておくこと。

そして、災害はこれからも必ず発生します。まずは自分自身の命を守るための備え、そして一企業人として災害時に自分がどのような行動をすべきなのか、役割をしっかりと認識し備えの意識を持っておくこと。今からできる備えを、できるときにしておくことが大切です。

「これからは自分たちで創り上げていく」次のステージに入った東北

岩手県一関市で生まれ育ち、震災後は東北地方で観光事業を展開する「イーハトーブ東北」を起業した、松本社長にお話を伺いました。

震災当日の様子を教えてください

東日本大震災発生時には仙台市内の金融機関に勤務していたのですが、建物自体が回転しているような大きな揺れを感じました。体感としては2分ほどの長い揺れで、そこから電気や通信も止まっている中必死にお客様の誘導や安否確認などを行っており、本当にあっという間の出来事でした。

どのような備えが大切だと感じましたか

震災に限らず災害時には通信手段が一切なくなってしまう可能性が高いので、やはり1番大切なことは、家族などの大切な人と、どこで会うのかを事前に決めておくこと。現在はスマートフォン1つで何でもできてしまいますが、逆にそのスマートフォンが使えなくなってしまったらどうなるのか―。毎日当たり前にある物、当たり前に感じてしまっている環境を当たり前だと思わず、何気ない日常がいかに恵まれているのかを認識しておくことが大切ですね。

震災がきっかけとなり、イーハトーブ東北を起業されたんですよね

そうです。震災後は、ボランティアで中学校のトイレ掃除などをしていたのですが、全国からたくさんのメディアが取材に訪れている中、普段テレビに出たがることが少ない東北の方々が積極的にメディアのところに行き、「私たちは○○に避難しているので無事です」「○○が安全です」と、様々な声を全国に発信していました。

連絡手段がない中、“自分の大切な家族や友人に会いたい”という気持ちを胸に、今できることに取り組む人々の姿を見て、東北の人々のひたむきさや実直さを改めて感じました。そこで、これからも東北の素晴らしい文化の伝承をはじめ、新たな産業や文化を創り出していきたいという想が生まれ、「イーハトーブ東北」の起業を決意しました。

▲一関市長と共に「一関市若者活躍会議」に参加

起業当時を思い返すと、私の心に残っている言葉があります。東日本大震災の被災地や被災者の物心両面の復興を応援するために制作されたチャリティーソング「花は咲く」。この曲を聴くと、今でも当時のことを鮮明に思い出します。

真っ白な雪道に 春風香る
わたしはなつかしい あの街を思い出す

叶えたい夢もあった 変わりたい自分もいた
今はただなつかしい あの人を思い出す

誰かの歌が聞こえる 誰かを励ましてる
誰かの笑顔が見える 悲しみの向こう側に

花は 花は 花は咲く
いつか生まれる君に

花は 花は 花は咲く
わたしは何を残しただろう

社員の方々へメッセージをお願いします

これまで全国から様々な支援をいただいていましたが、震災から12年経ち、東北は復興から次のステージに入っています。東北はもう支援を受ける側ではなく、自分たちで地域を創り上げていく段階です。

パソナグループの強みは、何かをやろうとしたときに、親身になって応援してくれる人々が集まっていること。改めて今、東北の魅力が世界から注目されはじめています。全国の皆さんには、ぜひ直接東北に足を運んで、東北との関わりを作っていただき、東北と絡めた新しい地方創生のあり方を一緒に生み出していきたいです。

▲岩手県の伝統的なお祭り「藤原まつり」にて

支援者ではなくプレイヤーへ。10年という節目を超えて生まれた、新たな覚悟

東京生まれ東京育ちのキャリアから、震災後のボランティア活動を通じて「パソナ東北創生」を起業した、戸塚絵梨子社長にお話を伺いました。

震災後のボランティア活動で、印象的だった出来事はありましたか

震災から約1か月後に東京から宮城県に向かい、家のがれき撤去などのボランティア活動を行いました。そこで、その家にもともと住んでいた方が毎日お茶や地元の餅を届けてくれましたことが今でも心に残っています。
被災直後にもかかわらず毎日避難所から足を運んでくださる姿を見て、本当は被災者として見て欲しいのではなく、県外から来た私たちにこれまであった本来の東北を知ってほしい、本当はもっともてなしたい、という想いが根底にあるように感じました。

また、避難所のお風呂を使わせていただいた際、地元の方々の間で「○○さんが見つかったらしい」といった会話が世間話として飛び交っていたことも強く覚えています。東京に帰る車の中で、「この方々の日常が戻るには、あと何年必要なのだろう」と、被害の大きさを痛感し自身の無力さを感じました。そして、「1度きりの支援にしてはいけない」という気持ちが、その後「パソナ東北創生」を起業する決意に繋がりました。

12年経った、釜石市の状況はいかがですか

震災後は、国や企業からの復興支援、2019年のラグビーワールドカップを目指したインフラ整備などで、ある意味で非日常的な状態が続いていました。しかし、月日が経過し、今では国の支援や県外の多くの企業が撤退し、良い意味で地域の方々が主体となった“日常”に戻ったと感じます。

実は、震災から10年という節目が経過した2021年頃、少しずつ“日常”が戻る中で、私たちは初めて “地元企業ではなかった私たちの役割・存在意義は何なのだろう”という問いを突き付けられました。これからも釜石市に居続けるのであれば、復興期間を終えても釜石市に居続けるということは、支援者ではなくプレイヤーとして地域を担い、地元の方と一緒になって自分たちが住むまちの未来を創っていく、そんな覚悟を持たなければならないのではないか、と。

私たちパソナ東北創生の存在意義を考える中で、うまくいかなかったことも多々ありましたが、これまで私たちがこの地域で取り組んできたことは胸を張れることであり、これからも地域の方々と共に歩んでいきたいという想いを再確認し、 “釜石市に残る”という決意をしました。ひとつ上の覚悟というか、ギアが一段上がった瞬間だったなと思います。

ご自身の心境の変化はありましたか

これまでは日常に戻ることができていない方もいる中で、自分が釜石での日々を楽しむことにどこか違和感を覚え、とにかく毎日忙しく復興活動をしていました。しかし、12年目を迎えた今では、プライベートで山登りやキャンプ、海に行ったりと、とにかくよく働いてよく遊ぶようになりました。

プライベートを通じて、地元の方々に様々なところへ連れて行っていただく中で、仕事仲間の枠を超えて友人にもなれたように感じます。今では私自身が一市民として、「釜石市がより暮らしやすく、より楽しい街になったらいいな」という想いから、地域活動やお祭りの実行委員などにもどんどん関わるようになり、本当の意味で地域を創る側に仲間入りしていることに、楽しさやワクワクを感じています。

▲(左)ラグビー女子日本代表 釜石合宿にて
女子ラグビーのアスリート社員 玉井さんなど、選手たちを市の職員や地元の方々と海鮮バーベキューでおもてなし
(右)月に一度、地元の蕎麦屋さんに地域の方々や移住者、旅行者などと集まっています

社員の方へメッセージをお願いします

まだまだ“東北を支援する”というイメージを持たれている方もいらっしゃるかもしれませんが、すでに東北は復興から次のステージへ向かい、皆さんと一緒に新しい未来を創っています。

また、東北のような被災地を訪れる経験は、こうした災害が「いつか自分たちにも起こるかもしれない」と自分ごと化され、“意識の備え”にも繋がることだと思います。東北にはまだまだ皆さんの知らない魅力がたくさんあります。いつでも案内するので、ぜひ東北に足を運んでみてください!

東日本大震災から12年。東北は復興から次のステージに進み続けています。一方で、震災を経験したからこそ学んだ「備え」の大切さは今も変わりません。

災害時にご自身をはじめ周りの大切な人の命を守るためにも、この機会にもう一度、日々の備えを振り返ってみてはいかがでしょうか。